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書評

立岩真也著『自由の平等』岩波書店2004.1.刊行

『図書新聞』2004.6.19. 2

橋本努

 

 

 「世界中の人々がみんな平等に幸せになれたらいい。」私たちは誰しも、一度はそのように願ってみたことがあるにちがいない。けれどもこの理想について考えていくと、それは途方もなく非現実的なことのようにみえてくる。世界中の人々が平等に暮らす社会を実現しようと思ったら、私たちは限りなく不可能な行為を強いられることになるのではないか。ちょっと想像してみるだけで、いかにも難しそうだ。難しそうだから、この願望は胸のうちにしまい込んだほうがよいことにしよう。実現不可能な理想を語るよりも、もっと現実的に、責任をとれることから始めたほうがいい。多くの人はそのように考えて、いつしか心に描いた夢や理想を語らなくなる。

 しかし本書はそうした考え方に抗して、平等の理想というものを根源的な次元で展開してみせた強靭な哲学書である。世界中の人々が平等に暮らすという理想を、「存在の自由」というオリジナルな着想から徹底的に考え抜く。そして平等への願望を、ただ「不可能」だと切り捨てるのではなく、哲学的思考によって「希望」へと変えていく。するとそこに広がる世界は、弱肉強食の資本主義社会とはまったく別の、所得の平等という簡単な原理によって支えられた希望の社会である。人々はそこそこの生活に満足し、焦らず、争わず、抗わず、幸せに暮らしていける。その透徹したビジョンは、「国際競争に勝たないと日本は生き残れない」と煽動するエコノミストたちの貧困な発想とは対照的に、人間本性に関する深い思考に支えられた、力強いオルターナティヴとなっている。

 タイトルにある「自由の平等」とは、人は能力や努力とは別に、ただ存在するということが等しく認められるような、言い換えれば「存在の快の平等」が「所得の平等」によって保障されるような社会の理念を指している。私たちは日常生活において、他者の存在を、地位や金や努力や学歴などの属性によって判断しがちである。しかしそのような尺度で人間をみていくと、属性の劣る人たちは必然的に社会から排除されてしまう。働かない人は受け取るべきではない、ということになってしまう。しかし「自由」が価値あるものだとすれば、それはすべての人にとって等しく価値があるはずであり、著者によれば、その価値のためには人々の総所得を単純に人数で割って、それを平等に配分することが望ましいという。もちろん制度はそれほど簡単に機能しないので、いろいろな追加的考察が必要となる。けれども制度改革の方向性としては、政府はただ、所得を平等に分配するというサービスに専念し、既存の福祉事業からは手を引くべきである、と著者は考える。なぜなら、政府の役割は「他者(人民)の存在をその他者性において尊重すること」であって、他者をある特定の配慮的関心によって共同性の中に包摂すること(他者性を剥奪すること)ではないからである。この考え方からすれば、公立学校や公立病院などの公共サービスはいっさい否定され、その点では小さな国家が目指されることになるだろう。

 所得分配の是非をめぐる議論は一般に、「小さな政府」か「福祉サービスの充実」かという点に焦点が当てられるが、しかし著者は、真の対立は「生産の政治」と「存在(の政治)」にあるとみる。「生産の政治」とは、国家の経済成長を促すという目標に照らして租税率の適正を判断するものであり、これに対して「存在(の政治)」とは、国家は分配し得るものの再配分に徹して、国富増大を企てる各種国家政策を拒否すべきだと発想する。この後者の理念は「平等主義」とも呼ばれるが、ただしそれは特異な部類に属するものである。例えば、ラディカルな平等を掲げる分析的マルクス主義者は、同時に生産性の向上にも関心を払っており、国富増大の思想を否定しない。また、多くの平等主義者たちは「自己責任」の観点から機会や資源の平等を求めるが、著者はむしろ結果の平等こそが重要であると考える。

この「結果の平等」という目標は、人々の無責任な行動を駆り立てるのではないかと思われるかもしれない。しかし著者がこの理念にこだわるのは、一つには、市場というゲームはその出発点と過程と結果の三つを明確に特定することができない以上、出発点の平等を確保することができないからである。またもう一つには、人々の間で生じる嫉妬や羨望や敵意を防ぐためには、人々の所得を平等に近づけたほうがよいからである。だが「結果の平等」を本気で目指すとなると、仕事のできる人や一所懸命に働く人が損をするのではないか。著者はこの疑問に対して、次のように答えている。すなわち、「基本的には、各自ができる/できないことと関係なく、各自がそこそこに持つことにすればよく、そのために必要なだけ生産されればよい」というのである。理想となるのはあくまで、「できる人」が優越したり価値を規定するのではなく、誰も支配的な振舞いをしないように、所得が機械的に均等分割されるような社会なのである。

 以上に描かれた構想は、なるほど所有よりも存在の魅力に価値をおく点で、人間の高貴さや気高さを開示する社会であるだろう。私はその理想をとても美しいと感じるが、しかしその一方で、もしかすると多くの人々は怠けて働かず、ひたすら社会的地位を得ることに関心を持つかもしれない、とも思う。あるいはかつてのソビエト社会のように、政治的地位をもった人々はその権力を利用して、再配分に回されない譲渡不可能な資産を増やそうとするかもしれない。所得が平等になれば、人は別の財や資産で他者と差をつけたいと思うのが弱き性であるからだ。しかしこうした危惧に対して著者は、政治の腐敗を防ぐために政府の機能を縮小すべきだと考える。政府がなしうるのは、あくまで所得の機械的配分だけであり、それ以外は何もしないミニマルな国家こそ、人間存在の自由を表現するシステムになるというわけだ。

 独創的な社会構想案であるが、そうであればこそ素朴な疑問も湧いてくる。例えば、政府によって存在を承認されたくない人はどうすべきなのか、という問題がある。著者はまず、「配分を受け取りたくないという慎ましい人」にはさしあたって再分配を強制してみて、それでも受け取らない「仙人のような人」には再配分する必要はないという。しかし仙人の子供に対しては、仙人に強制してでも、何か所得以外のものを配分する必要があるのではないだろうか。また、存在の肯定は、なぜ所得という所有の肯定と強固に結びつくのか、という基本的な疑問も残る。はたして著者は、人間を存在として肯定することの水準を超えて「所得=自由の平等」を主張しているのか、それとも所得の平等を存在=自由の肯定の理想とみなしているのか。存在という言葉によって著者は、「食べたいものを食べ、行きたいところに行く」という自由を念頭においているが、そうした自由がなぜ所得の平等によって平等になるのか。資産は自由と関係ないのか。存在概念をフローとしての所得に限定せず、むしろ能力や資源や欲求や選択といったさまざまな属性や経験を得る機会に結びつけるべきではないか。こうした問題はおそらく、国際的な分配を考える上で争点となるだろう。いずれにせよ本書は、政府の諸政策をめぐる根本問題を喚起する点で一読に値する。思考のリズムも深く、読む者を同じ思考に巻き込む力がある。